【私の東日本大震災体験記】〜東日本大震災から現在まで〜

先日(2019.6.18)日本海側で地震がありましたね。

最大震度6強ということで、私は東日本大震災を思い出しました。

今から約8年前の出来事です。

地元が東日本大震災の被災地ということもありブログを始めてから書こう書こうと思ってはいましたが、なかなか今日まで書くことができませんでした。

私は東日本大震災を経験し、「後悔しない生き方をしたい」と考えるようになりました。

今回は宮城県の沿岸部で被災地真っ只中にいた私の、東日本大震災の体験記を記しておこうと思います。

8年前なのでうる覚えの部分もありますが、今だから書けるとも思っています。

少し長くなりますがお付き合いください。

東日本大震災とは

東日本大震災とは2011年3月11日14時46分に、三陸沖で発生した日本の観測史上最大の地震です。

宮城県牡鹿半島の東南東130kg付近で、深さ約24kgを震源とする地震でした。

マグニチュード(M)は9.0。

これは日本国内観測史上最大規模で、アメリカ地質調査所(USGS)によれば世界でも1990年以降4番目の規模です。

印象的なのは津波の被害。

津波を伴う大きな地震には、チリ地震やスマトラ沖地震などありますが日本の中でこんなに大きな津波の被害があったのははじめてということです。

大規模火災も併発。

あらゆる災害が同時に、しかも非常に広い範囲で起こりました。

生きてきて20年そこそこで、この歴史的な災害を経験しました。

余震回数

M7.0以上:6回

M6.0以上:89回

M5.0以上:552回

余震の回数が尋常じゃないですよね。

もはや今では震度3〜4程度の地震なら慌てもしませんが、それも納得の数字です。

この余震のほとんどを体験したことになるのですから。

あまりよくない慣れですね。

浸水面積

約561km2(うち宮城県約327km2)

※青森、岩手、宮城、福島、茨城、 千葉の6県62市町村の数値

ちなみに私の地元は面積の半分が浸水するという甚大な被害でした。

津波

東日本太平洋沿岸部各地で大津波を観測。

最大波

相馬:9.3m以上

宮古:8.5m以上

大船渡:8.0m以上

1mの津波でも人が立っていられない状態になると言われています。

一軒家の二階建てで、高さが6〜7mが平均なのでそれを余裕で超えていますね。

家が流されたのもそう考えると納得できます。

死者・行方不明者

死者:15,829名

行方不明者:3,725名

(平成23年10月26日時点)

私の家族は無事でしたが、友人や友人の家族、親の友人…私が聞いただけでもたくさんの人が津波にのみこまれて亡くなりました。

3月11日 東日本大震災が発生した当日

東日本大震災が発生した時のことです。

ここからは体験談を主観で書いていきます。

地震発生時は眼科にいた

その当時私は柔道整復師の専門学校の3年生でした。

国家試験も2月に終わり、その結果待ちをしながらたまに学校に行くという生活。

3月12日が卒業式だったので、前日は学校はなく当時白内障で通院していた眼科の受診をしていました。

診察券を出し、ご年配の方でやや混み合っている待合室で壁掛けのテレビを見ていました。

最初はガタガタと底からあがってくる地響きを感じました。

そのあとすぐに、大きな揺れがやってきたのです。

震度6強

ものすごい揺れで、もうこれは中にいるのは危険だと思い眼科の駐車場に出ました。

その移動の時も揺れは収まることなく、普通に歩くのも危険な状態。

壁をつたうようにして、バランスを崩しそうになりながらも移動しました。

ご年配の方が多かったので、スタッフや周囲の人で支えあいながら移動していた記憶があります。

駐車場に出ても、揺れは収まりません。

少し弱まったかなと思うと、また余震がやってくるのです。

しかもその強さは余震レベルではありません。

私は今までに経験したことがない揺れと恐怖で駐車場の囲いのフェンスにつかまってじっとしていることしかできず。

隣にいる唯一歳の近そうだった女子高生親子と携帯電話のテレビでニュースを見ながら「なにこれやばい、どうしよう。」と何度も話していました。

もうそれ以外言葉が出てきませんでしたし、自分が今何をしたらいいのかもわからず恐怖に怯えるばかりでした。

自分の住んでいる地域に地震が起き、しかもそれはかなり大きな規模だということだけはわかりました。

その時は“津波”という言葉は頭になく、ただただ今までに経験がない大きさの地震と余震に「これからどうなるんだろう」という気持ちでした。

「このまま日本が壊れるんじゃないか」とも思っていました。

地震発生から15分くらいたつと、ぽつぽつと駐車場から自宅へ向かって帰る人が出始めました。

私はまだ余震が治らないし電柱や道路の地割れなどがあるかもしれないから危険だと一時悩みましたが、家にいるはずの弟も気になったので自転車で帰ることにしました。

私が通った道はまだそんなに地割れがなく、電柱が道路に倒れているということもありませんでした。

瓦屋根の瓦が落ちている家を横目に、急いで家まで自転車を走らせました。

無事に家に到着。

家の近くに弟や近所の人で、人だかりができていました。

家の中にいるより外にいた方が安全だと判断したそうです。

弟はちょうどシャワーを浴びていたようで髪の毛が濡れていました。

「家の中はめちゃくちゃだよ。」

その通り、家の入り口のシューズケースや本棚、食器など、家の中がめちゃくちゃで物という物が倒れ足の踏み場もないような状態でした。

本震から30分以上経過していましたが大きな余震も続いていて危険なので家の中には長居せず再び外に出ました。

近所の人と話をしているうちに、父と母も仕事から帰ってきました。

幸い、両親ともに自宅から職場が近かったので家族の安全を確認することができ一安心。

しかし父はインフラ系の仕事をしていたため職場から顧客のところの安全点検をして来いと通達があったようで、再び家を離れ海の方へ車を走らせました。

私と母と弟はまだ家の中を整理するのには余震で危険だということで、小学校まで住んでいた近くの祖父母の家に行くことになりました。

祖父母の家は割と古い建物ですが地盤が固く、そもそも物があまりなくすっきりとしていました。

いつも地震で物が倒れることもなかったのでうちより安心。

実際に行ってみると思った通りそれほどの被害もなかったので、状況が落ち着くまではそこで一緒に生活することになりました。

父は海側に行ったきり戻ってこなかった

夜になっても余震は続きました。

いつ停電したのかはもう記憶が定かではないですが、夜には電気がつかなくなっていました

この時電波はまだありましたが、もう充電ができないので充電の減りを気にしてあまり携帯電話を見ないようにしていました。

3月の東北、その日は宮城県の山沿いでは雪が降るくらいに寒かったです。

すでに停電しているのでお風呂も沸かせず、電気もつかないので移動も危険。

まだまだ余震も続いていました。

その時は恐怖で一人部屋で寝るという選択肢は頭になかったです。

みんなで居間に布団と毛布を枕を持ってきて、ろうそくとラジオを置いたこたつを囲むようにして6人で過ごしました。

ラジオからは延々と地震の被害や津波の襲来が伝えられていました。

父は日付を跨ぐ時間になっても帰ってきません。

その時はまだ電波が通じていたので、父にメールを送りました。

 

そら

どこにいるの?津波大丈夫?

父から返信がありました。

ぴよ

父「周りが水没していて帰れない」

そこから返信はありませんでした。

ラジオから沿岸部の津波の被害状況や、死体と思われる影が打ち上げられているという放送が続きます。

父が生きていると思われることはわかりましたが、沿岸部にいることが分かり私はなおさら不安になりました。

津波というものを経験したことがなかったからかもしれません。

地震から時間はたっているけど、何波まで来るのかわからない。父は本当に大丈夫だろうか。

家も流されるくらいなら、トラックなんてもう流されているだろう。

そこから返信も来なくなったので私は「父は死んだかもしれない」と一旦覚悟していました。

こたつで一緒に過ごしているみんなにわからないようにこっそり泣きました。

夜中になっても余震はおさまりません。

何度も余震が襲ってきます。

そら

余震でろうそくが倒れて火事にならないか、10m以上ならここまで津波がやってくるかもしれない、父はもう死んでいるかもしれない、ラジオからの音声だけで詳しい状況がわからない、余震はいつまで続くのだろう、これからどうなってしまうのだろう…。

色々考えることがあって夜は眠ることができませんでした。

心も体も落ち着くことはなかったです。

長い長い夜でした。

父の生還

夜が明け、朝になりました。

とにかく家族みんな父が帰ってこないので落ち着かずそわそわしていました。

希望は津波が到達した後であろう深夜にメールの返信が来たことです。

そんな状況でしたが、不思議なものでお腹は空きます。

確か自宅の冷蔵庫にあった悪くなりそうな食材を食べたと思います。

携帯に友人から電話が入っていたのでかけ直そうとしましたが、携帯電話からはもう繋がりませんでした。

祖父母の家の留守番電話にも親戚から着信があったのでかけ直そうとしましたが、こちらも繋がりません。

その時はもう電波が繋がらない状態になっているのがわかりました。

電気も停電しているままです。

水も断水しました。

状況は悪くなっているということを改めて実感しました。

昼頃になり、人影がこちらに向かってきます。

父が帰ってきました。

生きていました。

ここでようやくみんながほっとした表情になりましたし、安心感が生まれました。

トラックで走行中に津波が来たので、近くにあった唯一の高台となる高速道路に登ったそうです。

乗っていたトラックは流されました。

近くの高速道路は山のように土がつみあげられて作られています。

その周囲は平地で、津波でお店や家が海水につかっていたと言います。

津波が来る時にもう少し高速道路から離れていたら、父は死んでいたでしょう。

本当に生きていてよかったと思いました。

父は一家の大黒柱のような存在だったのだと感じました。

いると安心感が生まれる、子供の私にとってはそんな存在です。

当たり前のものが当たり前でなくなった〜情報とインフラ〜

ここからはインフラの話をしていきたいと思います。

インフラの復旧は同じ宮城県内でも地域によってかなり違いがありました。

地震・津波・原発の情報源はラジオのみ

私の記憶上、3月12日の朝にはもう完全に電波がこなくなっていました。

母と数百メートル大きな道路の方面に歩いてみましたが電波がこないのは変わらずでした。

なので、インターネットからの情報は全く入ってきませんでした。

また、停電が続いていたためテレビからの情報もゼロです。

情報が得られるのはラジオのみでした。

ラジオから津波の被害が伝えられていましたが、電波が来てテレビが見れるようになるまでは正確な津波の被害状況はわかりませんでしたし、自分の地域がどういう状況にさらされているのかもわかりませんでした。

自分の地元の沿岸部がどんな状況になっているのかも、父から聞く「沿岸部の家はもうみんな流されたようだ」という話だけでした。

それを聞いて沿岸部に状況を見に行こうという発想はありませんでした。

自転車で行けばただでさえちゃんと眠れていない極限状態の体を消耗させるだけだし、車は大事な交通手段です。

田舎では何をするにも車が必要です。

これからどうなるのかわからない状況でみすみすガソリンを減らしてしまうということは自殺行為に近いことでした。

原発のニュースを聞いてからはなおさら。

原発の情報

福島原子力発電所が地震の影響で機能しなくなり核の一部が溶け出した可能性があるというニュースを聞いたのは3月12日の午後だったと思います。

そこから日々状況が悪くなっていき、「なるべく外に出ないで下さい」という警告がラジオから流れ始めました。

正直、それどころではありませんでいた。

ライフラインが断絶している状態で、食料の入手、トイレなど日常生活のことを考えるので精一杯でした。

生きていくためには、家の中に引きこもっていることはできません。

私達家族は家も流されず住める状態だったので避難所には行きませんでした。

食料は主に祖父母の家の庭で栽培している野菜を調理して食べていたので、とりあえず収穫できる野菜は収穫して保管しておくということしか対策ができませんでした。

インフラの断絶と復旧

電波

電波は3月12日には完全にとぎれました。

復旧したのは約1週間後だったと思います。

電気より少し先に復旧したのですが、電気が来ておらず充電ができなくて祖父母の隣人の会社の自家発電を使わせてもらって携帯電話を充電しました。

電気

電気も1週間程度で復旧しました。

電気がついた時は「ついたー!」とみんなで喜びました。

停電に関しては、祖父母はすんなりと適応していました。

元々祖父母が幼い時は電気や電波はまだ発達していなかったので、昔に戻っただけではあります。

私達のように生まれた時にすでにスイッチをカチッと押せば電気がつく時代を生きてきた人の方が不便を感じていたと思います。

これは個人的に1番困りました。

まずお風呂に入れないのがきつかったです。

女性は特に毎月月経が来るので、その真っ最中だとかなりつらいです。

そして、トイレの流し水。

これは給水所でもらった飲み水を使うのは非常に勿体無いので、まだ断水する前にお風呂に貯めておいた水で流していました。

普通に大変でした。

ご飯を食べる時も食器が洗えない。

「生活するのってこんなに大変なんだ」と思いました。

ただ生きるだけでめちゃめちゃ時間がとられます。

水が使えないことが1番それを実感する出来事でした。

ガス

実家も祖父母の家も、近隣の家の人もほとんどプロパンガスを使っていたので調理には困りませんでした。

特に祖父母の家にはガス釜がありそれで米を炊けたので、それは大きかったです。

炊きたてのご飯が食べられることも幸せなことです。

水がなかったのでお風呂に入れなかったのですが、祖父母の隣人宅には五右衛門風呂があり井戸水もひいていたのでお風呂に入れていましたね。

電気が通じてからはご好意でうちまで水をひいてくれ、なんと、お風呂に入ることができました。

とっても嬉しかったのを覚えています。

実はうちにも井戸水を引いていたのですが、ほとんど使っておらず定期点検を受けていなかったので使えなかったのです。

祖父母の家の隣人には電気といい水といい本当に助けていただきました。

田舎のコニュニティのいいところは“助け合い”だと感じました。

本当に感謝です。

電車

電車は約1ヶ月で復旧しました。

部分部分で津波に線路が流されたり、線路がガタガタになったりしていたので思っていたより復旧は遅かったです。

復旧して再び電車が走っているのを見た時は感動しました。

ガソリンスタンドの渋滞

印象的だったのは、ガソリンスタンドの渋滞です。

地震発生直後、石油コンビナートや製油所で火災が発生し、石油の供給機能が停止しました。

また被災地沿岸部は津波でサービスステーション自体が被害を受け、少なくなっていたことも要因と考えられます。

ガソリンを入れるために4〜5時間待ち。

近くのガソリンスタンドでは整理券を配ったりしていました。

東北地方、特に都心から離れれば離れるほど車は必須になります。

ましてや電車が復旧する間の1ヶ月は交通手段が車しかなかったのです。

はじめの2週間のガソリンスタンド渋滞はすごかったです。

私自身、卒業式が3月12日にできなかったので延長し月末に一応授与式が開催されたようですが、車で1時間以上かかる場所だったのでガソリンの入手のことを考えて出席しませんでした。

それくらいガソリンは被災地では貴重なものでした。

電車が動くまでは臨時バスが出て仙台まで通勤している会社員の方も多かったようです。

買い物は一人10点まで

祖父母の家で栽培していた野菜をプロパンガスを使ってガスコンロで調理し、お米はガス釜で炊いていました。

被災地での食生活としてはとても恵まれていたと思います。

しかし、1週間を過ぎると食材にも限りがでてきました。

トイレットペーパーも底をつきそうでした。

そこで私はスーパーに買い物に行くことにしました。

物流も地震の被害で途絶えており、物が入ってこないということでスーパーも常に品薄状態でした。

目当てのものを確実に購入するにはオープン前から並ばなければなりませんでした。

オープン前から並び、オープンと同時に店内に入ります。

食材、日用品すべて合わせて一人10点までしか買い物ができませんでした。

商品自体もいつもより種類が限られています。

家が流されていない人は自分の家で生活している人が多かったので、困ったのは食べ物・水道が使えないことでした。

個人的に食べ物以外ではお風呂に入れなかったこと、トイレの水が流せなかったこと、手を洗えなかったことが1番きつかったです。

水の大切さを身にしみて実感しました。

震災無職

専門学校在学中に一切就職活動をしていなかった私は、震災無職になりました。

就活していなかった

柔道整復師の専門学校時代、私は就職活動を一切していませんでした。

在学中からこの仕事は私の体格では難しいかもしれないと薄々感じていました。

さらには解剖生理などの医学的な勉強や包帯を巻いたりすることは楽しかったのですが、整復法や固定術はあまり楽しいとは思えなかったのです。

そのため2年次から学校を辞めようか迷っていましたが、もう半分をすぎたし資格だけでも取得しようと思っていました。

そんなこんなで就職活動をしていなかったのです。

必然的に4月から無職になりました。

ハローワークや求人情報が機能していなかった

3月はもうとにかく日常生活を送ることだけで精一杯でした。

家族はすぐに仕事が始まったり、4月から学校が再開したりと家の外に出ていくようになりました。

「これからどうしよう」ということばかり考え、まさにお先真っ暗。

先のことが全く見えず絶望していました。

震災ボランティアに参加

4月の中旬になり、インフラや電車が復旧してやや生活が落ち着いてきます。

そんな頃、専門学校の講師だった接骨院の先生からボランティアについてこないかと誘われ参加することになりました。

ボランティアの内容は地元の被災地の体育館を回り、腰痛や軽度の怪我をしている人がいないかを見回り応急処置をするというものでした。

そこに私は柔道整復師として参加しました。

卒業したばかりで全く現場経験のない私は、ただただ先生についていくばかりで何もできず。

やったことといえばテーピングを切ったり包帯を用意したり、そんな感じです。

ただ付いていって体育館にいる人と話をするだけでした。

そこは飲んでいた薬も全て流されてしまったりお薬手帳もないから飲んでいた薬がわからなかったり、心配事を抱える人がたくさん。

医師や看護師が求められていました。

体育館での被災者の方々の生活は隣の家族との間になんの仕切りもなくシートやダンボールや毛布の上に座ったり寝ているような状態で、夜もその上から布団をかけて寝ているということでした。

そのため腰痛を訴える人が多かったです。

私が行った頃には海外のボランティアの方も来ており、ストレッチはその方々がやっていましたが布団やベッドに眠ることができない、運動する環境がないという環境が体調不良を助長させていると感じました。

【番外編】必要だと思った震災グッズ

私の被災地での体験から、これは必要だと思った物をご紹介していきます。

水は必需品です。

口から飲んでも安全な水を用意しておきましょう。

一人暮らしで水を買い置きしておくスペースなんてないという方は、500mlのペットボトルの水やお茶を予備で2〜3本買い置きしておくだけでも違うと思います。

それだけでまずは2日は生き延びられます。

2日あれば、避難所に行って給水車から水や食料を入手できる可能性が高まります。

とりあえず2日以上生きられる水分を確保しておきましょう。

携帯食

飴やチョコレート、補助食品などのことです。

空腹が長く続くと低血糖症状が起こる可能性があります。

すぐには食料を入手できない環境にいるときに、とりあえずエネルギーを摂取することができます。

缶詰

これは非常食としてですね。

電子レンジや火が使えなくても開けるだけで手軽に食べることができます。

マグロやサバの味噌煮、コーンなど日頃食べているものでいいと思います。

充電器

これは手動かソーラーパネルが付いているものをオススメします。

電気が通じない時も使えるものがあればいざという時に安心です。

私のように充電がなくなると、電気が通るまで充電場所を見つけてそこに滞在するのはなかなか大変です。

とりあえず一つあれば家族間でも使えますね。

生理用品・オムツ

女性の方はストックしておいて損はないです。

私も最近ミニマリストにちょっと憧れて物を結構捨てたりストックを減らしたりしていたのですが、生理用品のストックだけは減らしませんでした。

これは必ず使うものですし、なくて困ることはあってもあって困ることはありません。

また、高齢者の場合にはオムツもこれにあたります。

非常事態の時には水や食事が優先されやすいですが、オムツも同じくらい大切だと思っています。

ラップ

ラップは確実にストックが欲しいです。

水が出ない時にお皿にかけて、水で洗わなくて済むようにします。

食器を洗う水ですらも震災時には勿体無いです。

ラップは上にかけるのにも下にかけるのにも使えます。

便利!

使い捨ての箸やスプーン

本来ならばゴミになるし環境に悪いと思ってしまうものですが、使い捨ての箸やスプーンは多少ストックしておいてよいと思います。

これも水がない時に洗わずに使えます。

アルコール綿・手拭き

手洗いの水すらも震災時には勿体無いと思いました。

トイレの後には水で手を洗い、食事の前にはアルコール綿を使用すると水を使わずに清潔な状態を保つことができます。

汗拭きシート

実際にお風呂に入れない時に使っていました。

脇や顔まわりなど、汗をかきやすい部位だけでもスッキリするので持っておいて損はなかったです。

マスク

これは言わずもがなな感じですが、必需品でした。

断水時は洗顔ももったいないので化粧はしていませんでしたし、している人を見ることもありませんでした。

避難所で人がたくさん集まっている場所では、感染予防にもなります。

マスクは年中ストックしておいていいと思いました。

トイレキット

トイレキットは実際使っていたわけではないのですが、あると便利だと思います。

断水時にはトイレを流す水さえも惜しかったので、何回分かためて流したりしていました。

しかし流石に大の時にはそうもいきません。

トイレキットがあれば臭いが広がることなく処理できるのでいいなと思いました。

また小さいお子さんがいる方は、長距離の車の移動時などにも活躍すると思います。

空のペットボトルと穴をあけたキャップ

私が看護学生時代に自作したシャワーボトルなのですが、ペットボトルキャップに最低4〜5個錐(きり)で穴を開けます。

そうすると上手くいけば水がシャワーのように出てきます。

穴はなるべく小さい方がシャワー感が出るのでオススメです。

震災時普通にペットボトルから水を出して手を洗おうとすると予想以上に使ってしまい勿体無いなと思っていたので、もし錐(きり)があれば是非やってみてください。

東日本大震災から得た教訓

東日本大震災を経験し、私は「当たり前だと思っていたことは当たり前ではない」ということ、「後悔しない人生を選択する」という大きく2つのことを学び取りました。

「当たり前だと思っていたことは当たり前ではない」

真夏にエアコンが効いた部屋で快適に過ごすことができるのは当たり前ではないし、健康な体があることも当たり前ではありません。

蛇口をひねれば水が出てくることも、スイッチを押せば電気がつくことも、アレクサが使えることも、当たり前ではありません。

便利で嬉しい気持ちもありますが、それが当たり前ではないということを忘れないように生活していきたいと思います。

「後悔しない人生を選択する」

元々かなりの心配性でいつも悩んでいるタイプでしたがさらに自分の人生の選択に悩むようになりましたし、自分の選択に対して「それでいいの?」と自分で問いかけるようになりました。

これは自分の人生を、より真剣に考えるようになったからだと思います。

その背景には東日本大震災が大きく関係していると思います。

人間はいつ死ぬかわかりません。

寿命なのか、癌で余命を宣告されるのか、はたまた交通事故なのか、災害なのか、肺炎なのか、心筋梗塞なのか、クモ膜下出血なのか、脳出血で寝たきりの末なのか、誰にもわかりません。

明日死ぬかもしれません。

だとしたらどうしますか?

私は「後悔したくない」と思いました。

終わりに

これを書いている日の前日(2019.6.18)にも日本海側で震度6強の自身が起こり津波注意報が発令されました。

父と同じように弟もインフラ系の仕事をしているので復旧作業で4時に「今から仮眠する」とlineが来ていました。

7時には起きてまた復旧作業に向かったようです。

その話を聞いて私はこの震災の記事を今日書くことを決めました。

後悔したくないというとマイナスなイメージととられるかもしれませんが、私はむしろポジティブな意味で使っています。

いつも楽しく、幸せを感じていられる状態を自分で作る。

仕事にやりがいを持って取り組む、縁側で昼寝をする、美味しいものを食べに行く、友達とカフェに行く、新しいことにチャレンジしてみる、可愛いものや綺麗なものを見に行くなど、人によって好きなことや生きがいになることは違うと思います。

人生はきっと短いです。

後悔を全くなくすことはなかなか難しいことだと思います。

でも「後悔しないように生きるぞ」と思うとポジティブなベクトルが働いて、いい方向に向かっていける気がするんです。

「後悔しない人生を」