そらのプロフィール

そらのプロフィール

これはいなフリの1万文字チャレンジをした時に書きました。

プロフィール記事はいなフリ中にまるもに来て「10kg唐揚げ」のレシピを教えてくれたぼりさんの記事を参考にしています。

さくっと自己紹介

 

プロフィール

名前:そら

出身:宮城県

体型:チビ&ぽちゃ

好きな食べ物:割となんでも、たぶん味付け好みってことが重要

嫌いな食べ物:セロリ、おでんに入ってる結んである昆布

趣味:YouTubeで音楽鑑賞・ネットサーフィンだった

いなフリ後にプラスになったもの→かわいいもの・キレイなものと接する、かわいいWebサイト、色

職歴:震災無職→アパレルバイト→柔道整復師(5ヶ月)→無職→看護師(4年)→フリーランス

これまでの経歴(時系列)

1989年 宮城県で長女として出生

1990年 保育園に入所

1992年 川崎病発症、入院

1993年 弟出生

1996年 小学校入学

1999年 隣町の小学校に転校

2002年 中学校入学

2005年 高校入学

2008年 専門学校入学

2011年 専門学校卒業、白内障発症、東日本大震災、無職→柔道整復師として就職、看護学校入学

2012年 看護学校に補欠合格し入学

2013年 右眼の手術

2014年 逆流性食道炎・胃炎発症

2015年 看護学校卒業、病院に就職

2017年 甲状腺機能亢進・肝機能上昇・排卵障害発症、投資や副業に興味を持つ

2019年 病院退職→フリーランス

ここでもうお腹いっぱいな方もいるかと思いますが、もうちょっと聞いて欲しいのでもう少し詳しく自己紹介させて下さい。

そらの自分史

ガチガチの安定思考だった私がフリーランスになるまでのことを書いていきます。

ここからはいなフリでやった「自分史」を広げたような感じで書いていきたいと思います。

自分史の参考にしたのはいなフリ卒業生のななさまななさまです。

保育園時代

田舎生まれ田舎育ち

父方の祖父母・叔母、両親、4歳下の弟と宮城県の田舎町で暮らしていました。

家の後ろは山菜がとれる山、家の敷地内には大きめの畑、井戸、ニワトリと牛を飼っていたというなんとものどかな場所で育ちました。

小学校低学年の時は学校から帰ったら祖父母と畑仕事をしていた思い出があります。

栽培していた野菜・果物はとうもろこし、ナス、ネギ、トマト、キャベツ、白菜、人参、じゃがいも、ぶどう、柿、イチジク、栗など。

風呂は薪で沸かすタイプ(毎日曽祖母が沸かしていた)で煙突付きの釜もり、餅つきの時にはそれも薪で沸かしてもち米を炊いたりしていました。

トイレはぼっとん便所で怖くて小学生になるまでおまるを使っていました(笑)

3歳頃「川崎病」で入院

その時のことは全く覚えていませんが、入院したけれど早期発見だったため冠動脈瘤もできませんでした。

18歳までフォローアップしてもらっていましたが、完治しました。

※川崎病とは

日本では、一年間に
1万5千人くらいのお子さんが発病しています。

  • 川崎富作博士がこの病気を見つけたので世界的に『川崎病』と呼ばれています。一時小児急性熱性皮膚粘膜リンパ節症候群とも言われていました。
  • 全身の血管に炎症が起こります。
  • この病気の原因はよくわかっていません。
  • おもな症状は、数日以内に出そろってきます。
  • 適切な治療を行えば多くの患者さんは解熱し、元の日常生活ができるようになりますが、時に心臓に後遺症が残る場合があります。

男児が女児よりも1.3倍程度多く発病しています。地域的な流行がみられたり、兄弟あるいは姉妹で同じ時期(多くは10日以内)に間をおいて発病することがありますが(1-2%程度)、人から人へうつる病気とは考えられていません。

急な発熱ではじまることが多く、6つの主要な症状のうち5つ以上、または4つに加えて冠動脈病変が確認された場合に『川崎病』と診断されます(4つ以下の症状で冠動脈病変がない場合や3つ以下の症状で診断される不全型も20%程度あります)。

じいちゃん・ばあちゃん子だった

両親共働きのため迎えは母方の祖母が自転車で来ていました。(弟と3人乗り)。

四つ葉のクローバーを探して帰らないとごねてばあちゃんを巻き添いにした思い出があります。

10歳の時に曽祖母が亡くなる

はじめて人が亡くなったということを理解して、10年間で1番泣いた出来事だったと思います。

「昨日までそこで動いていた人が動かなくなる」ことを実感しました。

中学生時代

完全に陰キャラの暗黒時代

陰キャラなのに強めと言われる「女バス」こと女子バスケ部に入部。

入ってすぐに足首の靭帯を損傷して治るのが長引いて半年以上まともに練習できませんでした。

部活がいやでいやで仕方がなくて毎日「もう死にたい」と親に言っていました。

周りの目をすごく気にするタイプだったので、内申点が気になったり同じ中学で部活を変えても同じだなと思ったりしていました。

人を癒す仕事に魅力を感じる

柔道整復師という職業を知って「人の気持ちを癒して体も治す素敵な職業だ」と感じました。

この時から「女がひとりで生きていくには資格だ」と思っていて、とても安定思考でした。

10年以上やってたピアノ辞めた

3歳からピアノを10年以上続けてきたのですが、サボった末に辞めました。

元々クラシックとかはそんなに得意じゃなくてたまにやる歌謡曲アレンジがすごく楽しかったんですけど、さすがに長くやっているとクラシックとかが多くなってきて楽しくなくなり、サボってそれが親にバレてそのまま辞めることになりました。

音楽は今でもすごく好きですし、ピアノも嫌いではありません。

ただ毎週必ず教室に行って習うという行動が嫌になってしまいました。

中3でオーストラリアに行った

町の中学生の海外派遣事業で友達が応募していたので便乗して応募したら当たり、約10日間オーストラリアに行きました。

日本がすべてみたいな感覚だったけれど、日本の仕事や学歴が1番大事という考えだけがすべてではないと中学生ながらに感じていました。

中学がつまらなくて部活で辛くて死にたいと思っていたけど自分が見ていた世界はすごく狭かったんだと感じました。

この時は英語を勉強してオーストラリアに移住するのもいいかなと思っていました。

高校生時代

共学なのに女子だけ

共学なのですが、女子しかいない女子クラスで2年間過ごしました。

もうほぼ女子校ですね(笑)

女子が集まると怖いと言われますけど思ったよりも楽しかったです。

生理用品が教室内で普通に手渡されているのが普通で、自由な雰囲気で面白かったです(笑)

高校でやっと小学校から中学校にかけての”自分はできないだめなやつ”という気持ちが少し落ち着いてきました。

素行は至って真面目で、成績は中の中、とても平凡な人間でした。

エルレガーデンに出会う

部屋にテレビ線の差し込みがなかったためラジオ&音楽好きでした。

ラジオで聴いたエルレガーデンというバンドにハマり初ライブに行き、そこからメロコアバンドにどんどんハマっていきました。

小学校で転校してからこの時くらいまでは本当に自分に自身が持てなくて、エルレの曲を聞いて自分への応援歌だと感じていました。

ライブに行き始めたらエルレ好きな友達がたくさんできました。

専門学校時代は月1回はライブに行っていました。

今通っている仙台の美容院の美容師さんとは10年来のライブ友達です。

専門学生時代

柔道整復師の資格を取得する

中学時代から「女が生きていくには資格だ」と思っていたのと怪我をして柔道整復師との出会いがあり接骨医療専門学校に3年間通って資格を取得しました。

2年生あたりから医療の勉強は楽しいけど接骨分野の勉強はそれほど楽しいと思っていない自分に気づき辞めることをとても迷っていました。結局辞めませんでしたが。

それほど好きではないけど包帯巻くのは得意、でも就活はなにもしませんでした。

カフェやアパレルバイトに励む

アパレルバイトは数あるバイトの中で1番楽しくて2年続きました。

色の組み合わせを考えるのがすごく楽しかった記憶があります。

スタッフ間の人間関係もよかったので正直辞めたくなくて、このままアパレルに就職するのもありだなと本気で考えていました。

白内障が発覚

「視力落ちたな〜黒板見えづらい」と思って眼科に行ったら、原因不明の若年性白内障ということが判明。

白内障って生まれてすぐわかるか、もしくは歳をとってからなるものというイメージがあったのでとても衝撃を受けた記憶があります。

すぐに手術が必要なのか、目が見えなくなったらどうしよう、どうやって生きていこうと悩んでいました。

東日本大震災

そんなこんなで就活もせず白内障も発覚して、今後どうしていけばいいのか思い悩む日々を過ごしていましたが私の価値観を大きく変える出来事が起こりました。

東日本大震災です。

卒業式の前日、3月11日に東日本大震災が発災しました。

東日本大震災編

地震発生時は眼科にいた

私のところは震度6強くらいで、1回目の地震から立って歩くのも難しいくらいでした。その後揺れは収まることなく、何度も強い余震が繰り返し起こっていました。

それでもなんとか10分くらいで立って歩けるくらいにはなってきたので、家まで全速力で帰りました。

両親はその当時比較的近くの職場だったので一旦帰ってきましたが、父親はインフラ系の仕事だったので会社から指示されて設備の見回りに沿岸の方へ行ってしまいました。

実家はタンスや本棚が倒れてめちゃくちゃだったので、余震が落ち着くまでは父方の祖父母の家で暮らすことになり車で移動をしました。

その日の夜は夜通し揺れを感じ、この揺れはいつ終わるのだろうと恐怖を感じていました。

みんなでこたつに入り暗闇でラジオを聞きながら一夜を過ごしました。

父が帰ってこない

父が仕事の安全見回りのため沿岸部に行ったきり夜になっても戻ってきませんでした。

その時は涙と共に父に対する後悔がどんどん浮かんできました。

「なんでもっと優しくできなかったんだろう」「なんで地震の後仕事になんか行かせたんだろう」

仕事より命が大事だった、止めなかったことを後悔しました。

3月12日

波に流されて死んでしまったと思っていましたが、次の日の昼に父は徒歩で帰ってきました。

トラックを捨てて高速道路に登り、なんとか津波に流されず助かったのだそうです(トラックは流されました)。

津波の水が引くまでは高速道路から動けなかったようで、水が引いてから数十キロ歩いて帰ってきました。

死んでしまったと思っていたので帰ってきてものすごく嬉しかったのですが、みんな照れ屋な家族なので抱きついたりすることもなく「ああ、生きてたんだね。よかった。」くらいの感じで声をかけました。内心はめちゃくちゃほっとしていました。なんだかヒーローを見ているような感じで(笑)やっぱりお父さんは一家の大黒柱で頼りになる存在だったんだなと強く感じた出来事でした。あとでこっそり泣きましたね。

地震津波・原発の情報はラジオのみ

1週間電波なし・電気なし、3週間水なし生活を送っていました(火はプロパンだったし、ガス釜とガスコンロがあった)。

実は3月11日当日の深夜までは携帯電話のメールは使うことができていました。

しかし次の日に友人と連絡をとろうと思った時には携帯電話・家電・メールすべてが使えなくなっていました。

やっと電波が繋がるようになったのは1週間後でした。

連絡がつかなかったので専門学校時代の友人には津波に流されて死んだと思われていたようです。

仙台駅周辺に住んでいた友人の家は2日程度で電波も電気も復旧してお風呂に入れたと言っていて、それを聞いた時はちょっと恨みました(笑)

個人的に1番困ったのは水でした。飲み水は給水所にもらいに行っていましたが、お風呂やトイレの水はさすがに飲み水用の水で流すのはもったいないです。

祖父母の家は農業用に使える井戸水も引いていたのですがその時はもうほとんど使っておらず、定期検針も受けていませんでした。怪しい色な上に油のようなものが浮いていたので飲み水には怖くて使えませんでした。

ちゃんと検針を受けていたという隣人に水をもらえたので、2週間くらいでお風呂に入ることができました。

避難所生活をしていないのに避難所のお風呂を利用するのは気が引けるという気持ちも大きかったので、本当にありがたかったです。

この時はお金よりも食べ物や水が欲されていて、スーパーも品薄でした。

一人10点まで、物が無くなり次第営業終了という状況。

3時間くらいで営業終了という日もありました。

価格もやや上がり

お金<食べ物・日用品

お金だけが価値ではないのではないかという考えを持ち始めた時期でした。

絶望

震災後3ヶ月くらいは探そうにもハローワークやタウンワークなどの求人サイトは機能していませんでした。

検索をかけても「0件です」と表示されます。

なにか仕事をしたくてもバイトすら探すことができない状況で、「これから私はどうなるんだろう」と絶望感を感じていましたね。

当たり前なことはない

当たり前だと思っていることは実は当たり前ではないということを学びました。

親も友達も、家も、水も、電気も、食事も、電波も、あるのが当たり前ではないです。

生きていることすら当たり前ではないんだということを実感する大きな出来事でした。

【私の東日本大震災体験記】〜東日本大震災から現在まで〜でもっと詳しく書いています。

震災〜仕事編

震災ボランティアに参加

震災翌月の4月末、専門学校の講師だった人に誘われ震災ボランティアに参加しました。

資格はあるもののなにもできず津波被害地域の人たちの話をただただ聞くだけでした。

自分には何もできず役に立つことができなくてもどかしかったです。

仕切りもない体育館でシートと毛布の生活をしているたくさんの人を目の当たりにし、自分の家や祖父母の家は無事だったのでなんだか申し訳ない気持ちにもなりました。

そこで医療職(医師・看護師)が不足していて困っていると聞き、求められているのはもっと上級資格の人達なんだと感じました。

アパレルバイトから柔道整復師へ

元バイト先の人から連絡がきて仕事をしていないことを伝えると夏のセール期間アパレルバイトの求人があると教えてくれ、夏のセールのアルバイトをすることになりました。

アパレルバイトをしている途中で今度は専門の先輩から連絡が来て、「人がいないからどうしても来て欲しいんだよ」悲願され整形外科クリニックに務めることになります。

仕事編

手を酷使しすぎて危うく麻痺に

柔道整復師の仕事をはじめて2ヶ月目くらいだったと思います。

マッサージのしすぎで腱鞘炎&神経麻痺になり痛くて皿洗いもできない状態になってしまいました。

この仕事は長く続けられないと悟りました(薄給だったのもある)。

医療系以外の仕事はしたことがなく想像できなかったこと、今より給料高めだし、医療系は人の役にたてる上に業界的にまだ大丈夫だろうという理由で看護師を目指すことを決めました。

5ヶ月で仕事を辞め、実家に戻り1ヶ月で看護学校を受験し、補欠合格で看護学校に入学しました。

3年の専門学校で看護師資格をとる

看護学校は地獄でした。

理不尽な大人と出会い「すごく嫌いな人」ができました。

看護学校時代は中学時代の「死にたい」期とはまた別の辛さがあり、疲労とストレスから逆流性食道炎になりました。

検査のために胃カメラを経験(鼻からと口から両方)。

もうとにかく吐き気がめちゃくちゃ辛かったです。ここで自分の身体とメンタルの限界値を知りました。

就職先はなんとなく決めた

なんとなく先輩がいっている、同級生もいく、やや都会、給料もまあまあという理由で就職先を脳の専門病院に決めました。

看護師時代

1年目

1年目は寝たきりで喋れない人ばかりの療養病棟に配属されました。

1年目に配属されたのは療養病棟でした。患者さんとはほとんど意思疎通がとれません。

最初から言語的なコミュニケーションが取れない場所は新人の私にとっては少し物足りない感じがしました。

しかしそこから非言語的コミュニケーションというものはなにか、健康な人と患者さんとでどの観察ポイントが違ってくるのかということを考えるようになりましたし、正常・異常、五感、第六感、いつもと同じか違うかというものを自分でも意識するきっかけになりました。

人間の生きる意味とはなにかを考えさせられた

療養病棟は寝たきりの患者さんばかりでした。

午後にスタッフが数人がかりで車椅子に患者さんを乗車させ庭に出て日光浴したりするのですが、そこで私は「もっと遠くに散歩に行けたら楽しいのに」と思っていました。

1番きついと言われる病棟に異動を命じられる

2年目に突然急性期の1番きついと言われている病棟異動になりました。

実際めちゃくちゃきつかったです。

新卒でもないから全て付きっ切りでは教えてもらえない、でも技術はやったことがないものばかりで記録も療養と急性期では全く違うというなんとも微妙な状態でした。

特にはじめの半年はものすごく辛かったです。

始業の1時間前には病棟に行き、受け持ちの日であれば情報収集。それを元に1日のスケジュールをたて、時間毎にメモする。

「Aさんは◯時に点滴、その後Bさんの点滴をして、清潔ケアをして、観察して…午後は◯時に検査だから昼は絶食だな、ご飯間違って来てないか確認しなきゃ、昼の内服薬はあったかな」など。もうとにかくやることがたくさん。

それも受け持ちは一人だけではありませんし、病気も同じ病気ではありません。

はじめての処置や慣れていない検査の時も始業前に検査物品を全部準備しておいたり、スタッフの人数が少なそうな日はできることは朝始業時間前に前倒しでやったり、とにかく毎日やることがたくさんありました。

マルチタスクの極みな仕事だと思います。しかもそれには人の命がかかっている。責任が重くて押しつぶされそうになりました

3年目でリーダー業務をやりはじめてからは更に苦しかったです。

リーダーとして人を引っ張っていくことがすごく不得意で、プレッシャーを感じていました。自分がリーダーの時に他のスタッフが残っていると自分がうまく回せなかったせいだと感じたり、自分はだめだと自分を責めたり。

50〜60人の人の命を預かる責任という重圧は精神的にとても負担になっていたと思います。

夜勤ではスタッフ1人につき重症の方であれば8〜10人、比較的症状が軽く日常生活がやや自立している方なら20〜30人をみるという状況でした。

もう正直、何がなんだかわからなくなってしまいます。

日勤深夜勤務という勤務の場合、8:30−17:00〜24:30−9:00の勤務です。

残業がない日はほとんどなく、忙しい日だと深夜入りでも20時を超えることも。

酷い時はシャワーだけ浴びて仮眠もとれずにまた仕事が始まることになります。普通に眠いですよね。

眠い時って判断力が鈍るので、深夜勤務帯の点滴や採血は怖かったです。

看護師って指示をもらう医師にも、先輩にも、褒められることが経験上ほとんどありません。

そのくせ失敗した時には犯人扱いされインシデントレポートを書かされます。それが例え看護師のインシデントでなくても。

人の命を預かっているので当たり前と言われれば当たり前なのですが、看護師も人間です。自己肯定感は低下しますし、精神的にも辛くなってきます。

「私たちも人間だ。」

医療の現場にいるとそれを忘れそうになります。

看護師も人間だし、褒められたら嬉しいです。でも褒められる機会なんてありません。

成功して当たり前。

キツくて辛くて、他部署の失敗を押し付けられて、理不尽に怒られて…。

はじめは嬉しかった患者さんからの「ありがとう」も響かなくなってしまいました。

プライベートは犠牲になった

休日や時間外に研修・勉強会がある、休み明けにリーダー業務がつけばメンバーの役割決めで出勤していました。

自分の身体の異変

異動して1年たたないうちに肝臓と甲状腺と女性機能がおかしくなりました。

それでもやっと仕事に慣れてきたところだし脳血管造影を独り立ちするという目標があったので無理やり続けました。

自分の身体に鞭を打って頑張りましたが「もう夜勤をしたくない」と強く思いました。

その頃から株や副業に興味を持ちはじめます。

看護師を辞めるまで

お金の勉強をはじめる

看護師3年目は激務に耐えながら看護師を辞めたい気持ちから投資や経済の勉強を始めました。

そのあたりからお金に対する価値観が変わりました。

辞めたかったのに辞められなかった理由のひとつは高額な奨学金の返済が残っていたからです。

自分にとっての足枷になっていました。

もともと家が裕福ではなかったので借金や負債をこのままにして辞めたら自分が苦しむし、両親にも迷惑をかけてしまうという気持ちも強かったです。

しかし3交替勤務を続ける中で体調が戻ることはなく、大事なのはお金より健康なのではないのかと考えるようになります。

3交替勤務を辞めたいけれど日勤だけでは給料が安い(夜勤を辞めると収入が6万円程減ってしまう)。

ダブルで収入を得られるものはないかと考えた結果、副業だ!という結論に至りました。

ブログやライターを知る

Twitterの投資アカウントで池ちゃんの投稿を見つけ「いなフリ」を知ります。

面談までしましたが看護師を辞められず月日が経ち、2018.9にやっと都留の週フリに参加することができました。

そこでフリーランスの講師の人たちが実際にフリーランスとして生活ことを目にして、自分にもできるかもしれない、やってみたいと感じました。

2019年3月に病院を辞め今(いなフリ参加中)に至ります。

看護師のメリット・デメリットを書いています>>>【看護師を辞めてみてわかった】看護師を辞めてよかったこと・後悔したこと
もう少し詳しく看護師のキツさを語っています>>>【4年目ナースが看護師を辞めた理由】脳外科内科病棟元ナースが本音を語ります

どんな人・場所で生きる?

仙台

or

仙台くらいの都市

 

看護師時代に仙台市内に一人暮らしをしていたのですが、その近辺の街並みとか生活がちょうどよくて好きでした。

徒歩10分以内にショッピングモール・カフェ・駅・市役所、3分でセブンイレブン・公園、1分でドラッグストアと便利な場所で、それでいてゴミゴミした感じは全くありませんでした。

家で集中できなければふらっとカフェにいき、ご飯を作る余裕があればスーパーに買い物にいき、必要なものがあればショッピングモールもある。

そんな感じで、便利だけどそんなに都会ではない土地が自分の好きな場所です。

働き方に合わせてそんな感じの場所に住めればいいなと思っています。

 

場所も大事なのですが、1番大事にしているのは「人」だということに気付きました。

人の悩みの大半は人間関係、お金、病気だと思います。生活と治療にはお金がかかる、その他は人間関係の悩みです。

生死の間の忙しい急性期病院ではよく人の愚痴が飛び交っていました。

「なんでこうなの?」「だれがやったの?」「これ抜けてるじゃん、もう」

「あ〜夜勤やだな〜」「眠い」「疲れた」

この中には私が発していた言葉もあります。

愚痴の中にいると、その空気の中にいると、自分が疲労してくることがわかりました。

愚痴が完全にない環境はないかもしれませんが、できるだけ少ない環境にいたいと今は思います。

「環境が人を作る」というのをいなフリで実感しました。

これから先やりたいこと・興味

  1.  医療×IT:医療をよりよく便利にしたい
  2.  楽しく生きたい
  3.  時間、場所、お金にとらわれずにやってみたいことをやってみたい
  4.  動きたいときに動けるようにしたい=後悔したくない
  5.  興味のままに学べる環境
  6.  奨学金残り約400万の返済:行動の足枷になっている気がするから
  7.  Webデザイン、かわいいポートフォリオ作る

最後に

私が今ここでこうしているのは病気や、東日本大震災、仕事や生死に接する環境で仕事をし、人はいつか死ぬし寿命は短いということを感じたからです。

やりたいことはやってみる、やってみないとわからない。

元気に動ける時間は短い。

だから私は後悔しないように生きていきたいと思います。